電柵がくるまでのつなぎとして、自転車の電気をネットに取り付けた。
なかなか良い感じに警戒心を与えるのではないか?と思う。
ぬた場にされたところは、刈ろうにも稲がぐちゃぐちゃにおい被さり、
束として捕まえるのも一苦労。
稲の育て方、だけでなく、守り方(動物との対峙)も大切で、それも含めての
米作りなんだな、と身をもって学んでいる。
毎年が勉強。
そして、今年苗づくりがうまくいったからと言って、
同じようにやって来年も上手くいくということはなし、
しかし1が0になるようなことではなく、曖昧とも呼ぶような自然の摂理の中にある。
でも、今年のように米が育ってくれたら、
来年は頭から電柵もあるので、しっかりとした収量を得られそう。
そう、毎年、毎日が勉強。
作業をしていると、よく通りかかる猟師さんに声をかけられた。
以前、「よく、ここまで復活させたな」と言ってくれた人。
「せっかく作ったのに、これじゃ。気の毒に。端っこに罠しかけてもええか?」
と言ってもらえ、二つ返事でお願いした。
手塩にかけていた米をぐちゃぐちゃにされると、本当に落ち込む。
だけど、どこかで他者が見てくれていて、ねぎらいの言葉と、その人ができる方法で助け舟をだしてくれる。
田んぼに行くすがらよく挨拶をするおばあちゃんからは、
「もうすぐお月見やし、里芋おいとくから。食べてね」と。
重たくなった頭と沈んだ心がパーっと晴れる。
そしてまた頑張ろうと思える。
獣害を受けても、また次、来年のことを思えるのは、
こういう他者の慮りを感じられるから。
獣害も辛いだけではない、と。
ある種の満たされた感じを得られるのは、関係性が育まれていると実感できているからだろう。
ただ米を作っているわけではない、
目指したものが既にあった、いただけた、その充足感。
だからといって、獣の侵入を許すつもりはない。
音や匂いがすると、殺してやる、といつも思う。
なんとか、おかげさまで、
そういうもの、ということか