2016年9月13日火曜日

自転車ライトの設置

電柵がくるまでのつなぎとして、自転車の電気をネットに取り付けた。
なかなか良い感じに警戒心を与えるのではないか?と思う。

ぬた場にされたところは、刈ろうにも稲がぐちゃぐちゃにおい被さり、
束として捕まえるのも一苦労。

稲の育て方、だけでなく、守り方(動物との対峙)も大切で、それも含めての
米作りなんだな、と身をもって学んでいる。
毎年が勉強。
そして、今年苗づくりがうまくいったからと言って、
同じようにやって来年も上手くいくということはなし、
しかし1が0になるようなことではなく、曖昧とも呼ぶような自然の摂理の中にある。

でも、今年のように米が育ってくれたら、
来年は頭から電柵もあるので、しっかりとした収量を得られそう。

そう、毎年、毎日が勉強。

作業をしていると、よく通りかかる猟師さんに声をかけられた。
以前、「よく、ここまで復活させたな」と言ってくれた人。
「せっかく作ったのに、これじゃ。気の毒に。端っこに罠しかけてもええか?」
と言ってもらえ、二つ返事でお願いした。

手塩にかけていた米をぐちゃぐちゃにされると、本当に落ち込む。
だけど、どこかで他者が見てくれていて、ねぎらいの言葉と、その人ができる方法で助け舟をだしてくれる。

田んぼに行くすがらよく挨拶をするおばあちゃんからは、
「もうすぐお月見やし、里芋おいとくから。食べてね」と。

重たくなった頭と沈んだ心がパーっと晴れる。
そしてまた頑張ろうと思える。
獣害を受けても、また次、来年のことを思えるのは、
こういう他者の慮りを感じられるから。
獣害も辛いだけではない、と。
ある種の満たされた感じを得られるのは、関係性が育まれていると実感できているからだろう。

ただ米を作っているわけではない、
目指したものが既にあった、いただけた、その充足感。

だからといって、獣の侵入を許すつもりはない。
音や匂いがすると、殺してやる、といつも思う。

なんとか、おかげさまで、
そういうもの、ということか