2016年8月23日火曜日

8月の草刈り開始

やはりせっかく育ってくれた稲をほぼほぼ壊滅にまでされてしまうと、足が遠のく。
せっかくの苦労が、とか、またあの現実を見るのか、またさらに被害が大きくなっているのかもしれない、と思いつつ決して楽ではない作業をしに行くのは気が滅入る。

二十四節気の処暑
川口さん流の草取りの日
行かないわけにはいかない

田に水がない
また我田引水されているのかな?と思い上流へ確認
露骨に流れが堰き止められていた
定年も迎えた人たちばかりであろうに、なんだかなあ、と思いつつ
ポイポイと置かれた石を川の端へと投げた。

しかし8月に入ってまとまった雨が降らない
黒紫は開花しているので、水がほしいところ
滋賀旭は出穂もまだ

*ネットの下側をしっかりひもでくくり、獣が入れないようにする
*竹でフェンスのようなものを作る。竹槍のようなものも設置し入りにくくする。
有刺鉄線も有効かも

もち米の9割を荒らされたが、数日も経つと少しずつ受け入れられるようになってきた。
ほとんど壊滅で諦めがついたのかも。

それまで耕作放棄地で、畦もなくなり、カヤと笹が繁茂し、
自然に還っていた場所で、
鹿はセリを食べに、
猪はぬた場に、
そんなところを田畑にしたのだから、
獣が来ても当然
向こうにとっては例年通りの餌場だったのだろう。

当たり前のことだったのだ

道行く猟師さんに「せっかく作ったのになあ」とねぎらいをいただいた。
そんな触れ合いにも助けられる。
小さな田んぼでも、一生懸命向き合っている。
だから一反の田んぼが自分の一生のようにも見えて、それを踏みにじられると心が折れる。
だけど、一反は一反。
広いようでいて、とても小さく儚い一点。
それを忘れずにいよう

農作業は個人でやるものではない
助け合ってやっていくものなんだと思う
「自給自足を目指してる?」と聞いてくる人の言う自給自足は、近代的個人主義の価値観の中で定義されている自給自足ではないか?と思う事多々。

一昔前、高度経済成長期の人里離れて山に入り、自給自足で暮らしていく、
そんなイメージをいつまでも持ち続けるのではなく、
水、獣、天候、災い、
お互いさまでやっていける関係性
それらを育める地がこれから大切なんだろうと思う。
そういう場所を一人で作ろうとせず、仲間のもとへと行き、
作り育んでいける場所で暮らしていくのもいいだろう。