2021年6月4日金曜日

畏怖


田畑に精を出し始めてから自然の恵みに感謝とか祈りとかっていう言葉を自分なりに実感を持って使ようになって、
そして自分なりに使えているようになってきたと思っていたのだけれど、そうではなかったのかも。

神への畏れは意識したことがなかった。
そもそも神という存在自体を意識したことがないのだから。
自分が日々使う言葉で近しいものは自然だろうか。
稲が育つようにと手をかけ、しかしながら農業機械や農薬といった類は一切用いることなく、天候や稲の生育状態を気にはかけるけれど、執着はせず願望は手放し自然に委ねているつもりになっていた。
でも、農作業以外への自分の落ち度を考えたことはなかった。
あくまでも稲とその他の関係性だった。
主客非分離とかいっておきながら実際は自然科学的視点で対象として捉えていた。

天災とは今の言葉で言うと気候変動だろうか。
人類の落ち度への反省と対処としてSDGsなんてのがあるのだろうけど、そこに神への畏れは見て取れない。
マックスヴェーバーが脱魔術化と表現した社会の続きの物語なんだろうと思う。
自分が農作業を始めた主な動機は近代への疑問や、その疑問とする産業革命後の社会構造の上に成り立つ価値観の中で育ってきた自分自身への危機感だったりするのだから、縄文で言い表される根源や本質まで想いが充分に馳せられていなかったのも頷ける。
ちょっと田畑をやった程度で何かをわかったかのように勘違いしないよう戒めつつ、これからも農作業を続けていきたい。


以下、引用です




稲作というのは、せっかく手入れしても、自然災害が起きれば、それまでの苦労が水の泡。
だから、神頼みせざるをえなくなる。
それは、人間の願望にそった祈りにならざるを得ない。
縄文は、人間の願望以前に、神から与えられているもので糧を得ているという感覚があっただろうと思う。
だから、まず感謝。
そして、何か天災が起きたら、「神が怒っている、自分たちに何か落ち度があったのでは」と思う。
だから、祈りは、神への畏れが基本だったと思う





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