2017年5月23日火曜日

電柵の再設定


猟師の友人に来てもらい罠を仕掛けてもらった
その一部始終が見れたことは良い経験となった
狩猟免許をとったものの、罠を仕掛ける暇がとれなかったが、今年は違った
来年からは自分も猟師業を始める

電柵の高さをみて、一番下は15-20cmにした方がいいと助言をもらった
たまたまそこだけ高かったのだが、午後電柵を一周して見回った
同時に草を手刈り。

今の時期は獣が入ってきていないが、これからが本番
心理柵を抜けられないように、出来る限りのことはしたい。

草を刈って回っている最中、
田んぼを見守るかのようなお地蔵さんの周囲の草刈りもした。
去年は稲刈り後にやっと草刈りができた場所だ。
今年は今の時期にも手が回せることとなった。
感謝

なぜ刈ろうと思ったか、さほど大きな理由はない。
信仰もない。
ただ、田んぼをしていると、自分だけでできているのではないと思えるところから、思い立っている気がする。
田んぼを作った人たちのことを想像すると、感服する。
よく作ったものだなあ、と。
作らなくては生きていけないにしろ、あの広さを田にするなんて。
耕作放棄地を再生するのとはわけが違う。

一体いつ作られたのか定かではないけれど、先人の努力あっての今だと心底思う。
そして、そういう人たちがこのお地蔵様を祀ったのだろうと考える。
いまの地蔵自体は数十年前に入れ替えられたのではないだろうかと思える作り。
その前はただの石が地蔵として祀ってあったのではないか。

一体どういう気持で置いたのだろう、そんなことを考えながら草を刈った。
「今年こそしっかりとお米がとれますように」そう願った間なしに、欲深いと自省した。
きっと建設当時の人たちはそんな想いは二の次だったに違いない。
田んぼを作らせてください、そんな祈りだったのではないか。
そして目当ての開墾ができた後に、米をいただけますように、家族を食べさせられますように、と願ったのではないか。

地蔵を設置する理由はぼくはわからない。
研究者や民俗学を専攻する人ならウンチクをたれることは可能だろう。
でも、何が正解か、なんてことは全く興味がない。
自分があれこれ想像しながら草を刈る。
自分のおこないを見つめながら、ただひたすらに草を刈る。

社の上に木が寝かせてあるのに気づく。
嗚呼、守ってあるのだ。と思う。
何年も草で覆われていた地蔵と社が山の中に居場所を取り戻した。

草を刈るおこないそのものが祈り、そんな風に思えた。
形式も、
他者の解説もない。

なんのため、というのもない。
田にしてくれた名も知らぬ人と、その人たちが祀った地蔵様との関係を想像しながら
草を刈る、この行為自体が祈りだと諒解した。