2021年4月22日木曜日

若松英輔さんの「光であることば」を読んで


モンテッソーリやプラトンにとって教育とはその人自身を顕現させる営みだったと記してある。
シュタイナーは農作業を通じて学んでいく機会をエポック授業と名付けた。
教育者認定書など取得しなくとも、親という立場を離れた大人同士の試行錯誤からそのような場を築けないだろうか。
そんなことを思いながらの田畑を数年続け、そして訪れてくれる人の数が増えてきた。
今年から子供が入学と入園をし、私たち親の自由時間が増えるので、また一歩そこへと近づきたい。




”文字は目で見、声は耳で聞き、意味は脳で認知する。それがおよそ学校と呼ばれる場所の常識だった。
モンテッソーリやプラトンにとって教育とは、ある思想によって人間を作り変えることではなく、その人自身を顕現させる営みだった。
井筒俊彦は、声や文字である言葉とは異なる意味の顕れを、「コトバ」と書いた。究極のコトバはあらゆる言葉を包み込む沈黙である。
目で読み、手で書くことによって認知できる言葉があるように、「ふれる」ことによって感じ得るコトバがある。むしろ、人生の秘技は、しばしばコトバによってこそ語られる。”





https://shosetsumaru.tameshiyo.me/M202105HIKARI4