2015年6月11日木曜日

四十四日目

田植え

発芽して育ってくれるだろうか、と心配していたのも、つい最近のように思うのだけど、
あたふたと日々いそいそと手をかけていたら、
田植えができるほどにちゃんと育ってくれた。

稲の独り立ちの時。ちゃんと広いところへ移植する。
苗床から、土を少しつけたまま、平鍬で削り取り、
植えるところを鎌で切り、掘り、
そこに深すぎず浅すぎずで苗を植える。

苗床から苗をとる
川口さんは平鍬ですくいとるらしいが、
草取りを怠り雑草が多く、
稲がないところもあるので、
そういうところは、ハンドショベルでおこなった

一本植えした稲たち
稲によく似たイネ科の植物との見極めができないので、
気にせず植える事にした

優と二人で、昼前から16時頃まで田植えし
一枚の9割ほどを終えた
雨が強くなり帰宅

自然農とは、田植えの方法ではない、との思いを強くする。
自然に応じる、なんてことは一朝一夕で出来るわけもなく、ただあたふたとする一年目。
田植え仕事、手っ取り早くお金を得られる仕事、子守り、母の介護、妻の人生、等々それらとともにある自分のいまここ、それらもまた自然の一部。
自然という言葉の拡大解釈にあたるかもしれないけれど、
自然農とはそういった日々の揺蕩いに沿うことなのだろうな。

そういった自然に沿うこと、
ただ愚直に日々の営みをおこなうこと、
誇示することなく、妬むことなく、比べることなく、いのちの営みにあわす。感じる。

SNSは便利だ。しかしインスタントでもある。
「あの人は元気かな?うまくやっているといいな」
それで充分ではないか。
自然農の真似事を始めたら、派手でも地味でもない、一度限りのイマココこそだと身をもって思えるようになった。
自然と人為の調和の方向へ痛みをともなって向きつつある。
バランスがとれるようになるにはほど遠いが、悲観はしていない。